追悼 鈴木則文監督

今回はゲストハウスに全く関係ない、個人の思い入れ100%のブログです。
5月15日、映画監督の鈴木則文氏がお亡くなりになりました。

つい最近買った「トラック野郎 浪漫アルバム」を読んでいる最中の、ちょうど鈴木監督のロングインタビューを読んだ直後にお亡くなりになったことを知ったので、大変驚きました。
映画「トラック野郎」が上映されていた1975~1980年、僕はちょうど小学生で、この映画を映画館に見に行ったことはなかったのですが、土曜夜9時からのABC「土曜ワイド劇場」の中でよく放送されていたのを覚えています。

映画の中で実に楽しそうに日々を過ごし、全国を駆け回る一番星やジョナサンを見て、いつしか将来はトラックの運転手になれればなぁという思いが芽生えていきました。
学校を出た後、会社勤めをしてからもその思いは変わらず、会社勤めをしているときに大型免許も取りました。
会社を辞めて日本一周をした後、函館に住むようになってからもその思いは変わりませんでした。

住む場所が決まっていよいよ仕事を探すとき、トラックの運転手、それもなるべく長距離の運転手をしたいと思いハローワークに通ったのですが……
1社目は函館営業所での面接は好感触だったのですが本社でダメと言われたとのことで不合格、2社目はハローワークの人に「ここは出来ればお勧めしませんが……」と言いながら電話を掛けてもらったのですが本州の人間ということで門前払い、3社目で「やる気があるなら明日からでもいいよ」と言われ、念願だった運転手になることが出来ました。

入社当日会社に行くと、いきなり「今福島県に担当のトラック置いてあるから助手席に同乗して取りに行ってきて」と言われ、先輩の助手として人参の積み込みをして福島まで連れていかれ(その時の先輩は、後に一緒に移った別の会社で単独事故を起こしお亡くなりになっています……)、全くの素人なのに福島で桃を満載にして北海道に戻り、その後1ヶ月家にも会社にも戻れませんでした。
卸売市場での降ろし方、各所でバラバラな冷凍倉庫での順番取りの方法、フォークリフトの使い方などは誰からも教えてもらえず、全て自分で考えてやらないといけなかったので、3ヶ月くらいはホントにつらくて「もう明日になったらやめよう」みたいなことばっかり考えていたような気がします。

ただ、慣れてくると仕事も早くなるし、全国いろんな場所に行けて余裕がある行程の時はトラック野郎の映画に出てくるようなドライブインで昼間から(ry
結局、26~40歳まで14年の間、会社は3社渡り歩きましたが、長距離トラック一筋で大きな事故もなく過ごすことが出来ました。

腰を痛めたり、他にも様々な要素があってトラックを降り、今は縁あってゲストハウスで旅人さんのお世話をしているのですが、「トラック野郎」は僕の人生を決めたと言っても過言ではないほど、大きな影響を受けました。
鈴木則文監督へ謹んで哀悼の意を捧げます。

コメント

  1. たつ より:

    一番星が自宅にいるシーンは一度も見たことないけど、もしかしたらホームレスだったんですかね。ジョナサンは家はありましたから。

  2. crossroad@七重浜 より:

    >たつさん
    一番星は地元?に戻ると、今で言うなじみのソープランドにずっと居たようなので、決まった家はなかったのかもしれませんね。
    僕がいた会社の同僚にはいませんでしたが、他社のドライバーにはどうせ家に戻れないからと定住している場所がない人は実際にいました。